こんにちは。弁護士の浅見隆行です。
旭化成株式会社は2026年9月17日、半導体製造用の潜在性硬化剤「ノバキュア」に関する技術情報が中国の化学メーカーに流出していたことを明らかにしました。
同社の元従業員が在職中に機密情報を不正に持ち出し、退職後に中国企業へ送信していたとされる事案で、愛知県警は同日、不正競争防止法違反の容疑でこの人物を逮捕しています。
ここまでが公表されている事実ですが、この事案を見ていて気になるのは、情報が実際に流出してから発覚するまでに生じていた長い空白と、発覚の経緯そのものが旭化成自身の調査ではなく、外部からの偶然の端緒だったという点です。
今回は、この2点を手がかりに、退職者による情報の持ち出しに企業がどう向き合えばよいかを見ていきます。
旭化成の事案で何が起きたのか
読売新聞オンラインによると、逮捕されたのは静岡県富士市在住の66歳の男性です。
旭化成の製造技術部門で部長職を歴任し、2018年11月に退職しています。
退職直前、潜在性硬化剤「ノバキュア」の製造技術に関する情報を記録媒体に保存して持ち出し、2024年9月、中国山東省の化学メーカーである山東聖泉新材料股份有限公司に、この情報をメールで送信したと報じられています。
旭化成は、調査の結果、取引先から預かった技術資料や個人情報は今回の流出の対象に含まれていないことを確認したと公表しています。
再発防止策として、機密情報へのアクセス権限の見直し、退職者のパソコン管理の強化、全従業員を対象としたコンプライアンス研修の実施を発表しました。
元従業員と山東聖泉新材料股份有限公司に対しては、情報の利用停止と廃棄を求める民事訴訟を提起する方針も明らかにしています。
情報流出の発覚までの道のりは一様ではない
今回の事案で見過ごせないのは、流出そのものがいつ発覚したかという経緯です。
中日新聞Webによると、2024年8月に別の企業が同種の情報流出について愛知県警に相談したことが端緒となり、その後の捜査の過程で旭化成の技術が流出していた事実が判明したと報じられています。
情報が持ち出されてから発覚するまでに、2018年の退職、2024年の送信、2026年の逮捕という具合に、長い年月がかかっている事案です。
新日鐵住金(現・日本製鉄)がポスコを相手取り、方向性電磁鋼板の製造技術をめぐって争った事案でも、同社は2012年4月に訴訟を提起し、2015年9月30日にポスコから300億円の和解金の支払いを受ける形で決着しています。
技術情報がひとたび外部に渡ると、発覚や決着までに数年単位の時間がかかる事案が少なくないことが、この2つの事案から見えてきます。
ただし、発覚までに必ずしも長い年月を要するというわけではありません。
プルデンシャル生命保険は2024年4月9日、横浜支社の元従業員が顧客管理リストを不正に持ち出し、転職先で使用していた事実を公表しています。
発覚の端緒は、2023年9月に寄せられた契約者本人からの問い合わせでした。
取引先や顧客自身が、元担当者の不自然な動きに気づいて会社に知らせてくれる場面は、現場では珍しくありません。
旭化成の事案が外部企業からの相談を端緒として警察の捜査で発覚したのに対し、プルデンシャル生命保険の事案は顧客自身の気づきが発端になっています。
発覚の経路は事案ごとに違い、自社の管理体制が機能していたから早期に発覚するわけでも、機能していなかったから発覚が遅れるわけでもないことがうかがえます。
旭化成が示した再発防止策の射程をどう見るか
旭化成が発表した機密情報へのアクセス権限の見直しや退職者のパソコン管理の強化、全従業員向けのコンプライアンス研修は、在職中の情報管理としては妥当な内容だと思います。
アクセスできる人間を絞り込み、持ち出しの経路になりやすい端末の扱いを厳しくし、従業員に営業秘密の重みを繰り返し伝えることは、在職中の抑止力として一定の効果があるはずです。
ただし、これらの施策が及ぶ範囲には限界があります。
アクセス権限の見直しも端末管理の強化も、効力が及ぶのは従業員が会社に在籍している間だけです。
退職してしまえば、会社の管理が及ぶ対象そのものがいなくなります。
今回の元従業員が情報を持ち出したのは退職の直前であり、在職中は正規の権限の範囲内で技術情報に触れていたと見られます。
在職中の管理をどれだけ厳格にしても、権限を持つ本人が退職後にその情報をどう扱うかまでは制御できません。
立派な研修資料や厳格なアクセス権限の一覧表が整っている会社ほど、経営陣は「手は打っている」という安心感を持ちやすくなります。
しかし、その安心感が、退職という局面に固有のリスクへの関心を薄れさせているとすれば、本末転倒です。
制度が整っていること自体に満足せず、その制度が及ばない退職後の領域にこそ目を向ける必要があると思います。
退職者による持ち出しに企業はどう備えればよいか
在職中のアクセス管理が抱える限界
営業秘密の管理というと、誰がどの情報にアクセスできるかを細かく制御し、異常なアクセスを検知する仕組みを整えることが中心的な対策として語られます。
しかし、今回のように正規の権限の範囲内で情報に触れていた人物が、その情報を外部に持ち出す場面では、アクセス制御そのものが機能しません。
許可された範囲内での利用は、異常な挙動として検知される対象にならないからです。
アクセス管理を厳格にするほど、日常業務での不便さも増していきます。
閲覧のたびに承認を求め、外部媒体への保存を一律に禁止し、印刷も制限すれば、情報の流出は防ぎやすくなる一方で、現場の担当者が普段の仕事を回す速度は落ちます。
情報管理を担う部門がこの両立の難しさを引き受けないまま規程だけを厳しくすると、現場では規程を迂回する運用が生まれ、かえって管理の実効性が失われることもあります。
アクセス管理は有効な手段ですが、それだけで退職者による持ち出しを防ぎきれるものではないという前提に立つ必要があると思います。
発覚後の法的対応を抑止力として位置づける
旭化成が、元従業員と山東聖泉新材料股份有限公司に対して情報の利用停止と廃棄を求める民事訴訟を提起する方針を明らかにしたことは、被害の回復という意味合いにとどまらない価値を持っています。
訴訟を提起するかどうかを検討する場面では、勝訴の見通しだけでなく、訴訟を起こしたという事実そのものを社内外にどう伝えるかという視点も重要だと思います。
当事者同士で静かに和解して幕引きを図るのではなく、訴訟という形を取って公にすることには、在職中の従業員に対する明確なメッセージとしての意味があります。
情報を持ち出せば、転職先や受け入れ先の企業を巻き込んだ法的手続に発展し、その経緯が社会に知られる可能性があるという現実を、具体的な事案を通じて示すことになるからです。
もちろん訴訟である以上、必ず勝てるという保証はありません。
それでも、訴えるという選択をしたこと自体を公にする姿勢は、同じような持ち出しを考える人間への抑止力として働くはずです。
退職者による情報の持ち出しを完全に防ぐ方法はありません。
防げることを前提にするのではなく、持ち出されたときにどれだけ早く気づき、どう対応するかという備えに力点を置く方が、経営判断としては現実的だと思います。
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